What’s DESIGN #03 歴史から知るデザイン(中編) “アメリカのデザイン”

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デザインの歴史を紹介するシリーズの中編、今回は「アメリカ」にスポットを当てて見ていきたいと思います。
前回「デザインは産業と密接な関わりがある」とお伝えしました。今回取り上げるアメリカは開拓時代を経て急速に成長し、その過程で様々な産業が興りました。つまり、デザインのあり方や考え方も大きく動くことになるのです。

開拓時代と産業革命

引用:Wikipedia ジョン・トランブル「独立宣言」(1819)

まずはアメリカの歴史を少しだけお話しします。
アメリカ大陸は1492年コロンブスによって発見され、1776年に独立宣言を発表し、1783年に「アメリカ合衆国」として正式に独立しました。
このアメリカ合衆国独立とほぼ同時期にイギリスで起こった大きな出来事があります。そう、前回お話しした「産業革命」です。イギリスではモリスなどによる反対の声もありましたが、アメリカでは大いに受け入れられました。
当時のアメリカでは、大きな街は大陸の東側にしかありませんでした。労働力も少なく、その点を補ってくれる蒸気機関などの新技術が積極的に導入され、大陸西側へと開拓を進めたのです。

シカゴで生まれた機能主義

引用(左):Wikipedia ルイス・サリヴァン(1856-1924)
引用(右):Wikipedia オーディトリアム・ビル(1889)

時代は進み1860年頃、著しく発展していく街があります。それが「シカゴ」です。東西を繋ぐ内陸交通の要でもあり、シカゴを地盤とするリンカーンが大統領に就任するなど、その勢いは凄まじいものでした。
そんな中で大きな事件が起こります。それが1871年に起こった「シカゴ大火」です。この火事でシカゴの市街地は壊滅状態になり、これを機に計画的に都市を開発していくことになります。
この火事を反省し「木造」での建築を禁止しました。その上で、都市の急成長や人口の増加を踏まえ、より作りやすく、より規模の大きな建物が必要とされました。そこで注目されたのが「鉄」です。鉄を用いたことにより、背の高い建築が可能となりました。いわゆる「高層建築」の誕生です。見た目も中身も同じようなフロアを積み重ねたそれは、今で言う「オフィスビル」や「マンション」などの先駆けとなりました。この高層建築のスタイルを「シカゴ派」と言います。
シカゴ派の代表的な建築家に「ルイス・サリヴァン」がいます。サリヴァンは「形態は機能に従う」と言い、装飾を肯定しつつ、求められる機能性を重視した建築のあり方「機能主義」を唱えました。

多角的に考えられたフォーディズム

引用:Wikipedia ヘンリー・フォード(1863-1947)とT型フォード(1921)

シカゴの発展に伴い、近くの都市「デトロイト」も成長していきました。1900年頃に自動車工業が興るのですが、そこで登場するのが「ヘンリー・フォード」です。フォードは西部開拓の際に資材や瓦礫を運ぶために使用されていた「ベルトコンベア」に着目し、これを工場に取り入れました。ベルトコンベアに製品を乗せ、1人が1つの作業工程を受け持ち次の工程に流す。この流れ作業により、効率良く製品を作ることを可能にしたのです。
この頃すでに自動車自体はありましたが、あまりに高価だったため、ごく一部の人しか所有していませんでした。そこでフォードは「価格の安い自動車を造る」という目標を掲げました。形はそれまでの馬車を受け継ぎ、流れ作業で大量に生産する方式を取ることでそれを実現させたのです。
さらに、「自動車の構造をシンプルにする」「部品の規格を統一する」「生産高に比例して賃金も上昇する」など、大量生産のための様々な仕組みを取り入れました。この多方面から考えられた生産手法や経営思想を「フォーディズム」と言います。
そうして1908年から販売された「T型フォード」は飛ぶように売れました。フォーディズムによって造られたT型フォードは機能主義のシンボルとして世間の評判を得たのです。

ニーズに合わせたスタイリング

引用:Wikipedia 人気モデルのスペリア シリーズK(1925)

フォード社が安い自動車を世に送り出していくにつれ、人々の間ではマンネリ化がささやかれるようになります。街は同じ形、同じ黒色の車で溢れていたのです。すると人々の欲望は自動車を「所有する」ことから「見た目」」に向かいました。
この点に注目したのが「アルフレッド・スローン」率いる「GM社」です。GM社では低価格帯のシボレーから、高価格帯のキャデラックなど、製品にランクを設けました。それぞれ内装・外装の仕様も変え、T型フォードの黒一色に対しカラーバリエーションを設けるなど、ターゲットごとにデザインを使い分けたのです。これが大ヒットし、GM社はフォード社を抜き業界トップになりました。
造りやすさや機能を重視したフォード社とは異なり、消費者のニーズに合わせて見た目を変える「スタイリング」という考え方が誕生したのです。

「売れる」を重視した流行の誕生

引用:Wikipedia アメリカン・ユニオン銀行の群衆

そんなアメリカを皮切りに、1929年に起こったのが世界恐慌です。倒産寸前の企業が少しでも利益を出すための手段として注目したのが、製品の外観だけを変える手法「スタイリング」でした。
中身を変えないので生産コストが抑えられ、見た目の「古い・新しい」を生み出すことで消費者の購買のサイクルを促す。デザインはこうした「売れる」ことにフォーカスした経済的成功のためのものになっていきました。
1つ「売れるもの」が登場すると、他の企業もこぞってそれを模倣しました。こうして生まれたのが「流行」です。製品の機能や美しさを追求するのではなく、消費者の社会的身分や所有欲などのニーズに応えた結果の「販売」を目的とした見た目のコントロールがこの頃のデザインのあり方です。

インダストリアル・デザインのパイオニア

引用(左):Wikipedia ペンシルバニア鉄道の機関車 GG-1(1943)
引用(右上):Wikipedia ローウィの鉛筆削り(1934)
引用(右下):Wikipedia タバコPeaceのロゴ(1952)

短期間でのモデルチェンジや、消費者のニーズを反映させるなど、大量生産・大量消費の時代において「デザインの優劣」が売上に影響するようになりました。そこで生まれたのが「インダストリアル・デザイン」という言葉です。
「レイモンド・ローウィ」「インダストリアル・デザインの父」と呼ばれ、ひげ剃りやタバコのパッケージ、鉄道車両まで、あらゆるもののデザインを手掛けました。
ローウィのデザインは「流線型(ストリームライン)」が特徴です。もともとは空気力学的に生み出されたフォルムですが、この形状が大流行しました。速さを感じる曲線的な造形が、本来空気抵抗の考慮が必要のないようなものにまで適用されるようになったのです。これを「ストリームライン様式」「後期アール・デコ」と呼び、一斉を風靡します。

問われるデザインのあり方

引用(左):Wikipedia モホリ=ナジ・ラースロー(1895-1946)
引用(右):Wikipedia ニューヨーク近代美術館(1929-)

1930年代、ドイツではナチスの勢力が強まり、バウハウスの人々がアメリカに亡命しました。バウハウスのデザインへの影響は大きく、1937年には写真家の「モホリ=ナジ」により、シカゴに「ニュー・バウハウス」が設立され、アメリカにバウハウスの教育が展開されます。
また、ニューヨーク近代美術館(通称:MoMA)では「バウハウス展」や「機械芸術展」が開催されました。美術館がアートではなくデザインの文脈の展示を行ったのです。
「流行りの見た目を追う」姿勢を踏まえ、デザインのあり方を問う動きが起こりました。1950年には「エドガー・カウフマン・Jr」により「近代デザインとは何か?(生田訳、美術出版社)」が出版されました。そこでカウフマンは「近代デザインの12の定理」を挙げ、良いデザインとは何かについて一石を投じます。商業主義に傾きがちなデザインに対し、芸術と産業・機械生産とを上手く組み合わせ、生活をより「快適にする」デザインを目指すべきと主張したのです。

今回はアメリカのデザインを取り巻く歴史を見ていきました。「機能主義」から、「スタイリング」、それに伴って生まれる「流行」、商業主義への問いなど、大きな動きがあったことが分かったかと思います。
次回はデザインの歴史を知る後編、20世紀後半からのデザインを見ていきましょう。

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