歴史から知るデザイン(前編) “デザインの誕生”

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前回の”What’s DESIGN”ではデザインの「意味」から「デザインとは何か」を考えていきました。今回はデザインという考え方が生まれた「歴史」を見ていきたいと思います。
デザインは「商業美術」と言われることがあります。その名の通り、デザインは産業や人々の消費行動と密接な関係があり、それらの移り変わりによって生まれ、変化していきました。少し長くなるので、前編・中編・後編の3回に渡ってお送りしようと思います。

産業革命と職人の手仕事

引用(左):Wikipedia ウィリアム・モリス (1834-1896)
引用(右):Wikipedia ウィリアム・モリス 「いちご泥棒」 (1883)

18世紀後半、イギリスで産業革命が起こりました。蒸気機関が登場し、今までは職人と呼ばれる人が1点1点手作業で作っていた物が機械で大量に生産できるようになったのです。しかし、当時はまだ機械の精度も低く、大量生産された物の中には質の悪いものも多くありました。職人は職を失い、製品からは美しさが失われてしまいました。
そんな状況に意を唱えたのが「ウィリアム・モリス」です。モリスは中世の職人の手仕事による質の良いものを人々の生活に届けるべく、「モリス・マーシャル・フォークナー商会」を設立します。生活の中に芸術性のある「良き装飾」を取り入れることをモットーとし、壁面装飾や、家具、ステンドグラスなどの室内装飾に取り組んでいました。
このモリスの思想や、それに伴う潮流を「アーツ・アンド・クラフツ運動」と呼びます。

一時代を築いたアール・ヌーヴォー

引用(左):Wikipedia パリの地下鉄入り口
引用(右):Wikipedia アルフォンス・ミュシャ 「夢想」 (1897)

そんなイギリスで起きたアーツ・アンド・クラフツ運動ですが、作られた製品はどれも高額なものになってしまい、人々の生活には上手く浸透しませんでした。しかし、海を渡ったフランスではその思想や製品は様々な人に影響を与えました。モリスの作品は「自然」をモチーフにしたものが多く、その曲線を活かした作風が「新しい!」と高く評価され、大流行しました。このしなやかな曲線と曲面を持った装飾のスタイルを「アール・ヌーヴォー」と言います。フランス語で「アール」は「芸術」、「ヌーヴォー」は「新しい」という意味です。
この様式はポスターやインテリア、建築にまで及び、金属やガラスなどの新しい素材も積極的に取り入れた斬新な作品が多く作られました。

ドイツ工作連盟の規格化

引用:Wikipedia AEGタービン工場 (1909)

20世紀に入り工業化社会が進むにつれ、デザインは生産者にとっても消費者にとっても重要な意味を持つものと認識されていきました。特にドイツにおける芸術と産業を融合しようという動きは一際注目されました。
ドイツはこの頃イギリスから遅れをとっており、様式にとらわれず、機械化や新技術を積極的に取り入れた物造りを行うようになりました。その中で「良質」な工業製品を目指したのが「ヘルマン・ムテジウス」です。機械生産を肯定しつつ、その製品の品質的工場を目的とした「ドイツ工作連盟」に参加したムテジウスは「規格化」を推し進めました。部品や材料などの規格を定めることにより、大量に生産しやすく、見た目も統一された質の良い物を作ろうと提案したのです。モリスが工房での「職人の美」に注目したのに対し、その影響を受けつつも工場での「機械生産の美」に注目したのがムテジウスでした。
ムテジウスの考え方は現代の大量生産の礎となるものではあるが、それに反対する声も上がっていました。中でもアール・ヌーヴォーに影響を受けていた建築家「ヴァン・デ・ヴェルデ」は「職人や芸術家の個性・芸術性」に重きを置いており、規格化に苦言を呈していました。この議論を「規格化論争」と言い、以後のデザインの展開に大きな影響を与えました。

バウハウスがデザインを体系化

引用:Wikipedia バウハウス デッサウ校 (1925)

第一次世界大戦敗北と11月革命による帝国崩壊を経て、社会民主主義政府のもと、ドイツではワイマール共和国が建国されました。暗黒時代に光が差し、若い人々の創造に対する熱意が高まっていました。
1919年、そんなワイマールに今までとは違った新しい美の基準や芸術学問を切り開くべく作られたのが、総合造形学校「バウハウス」です。
ドイツ工作連盟で活動していた建築家「ヴァルター・グロピウス」がバウハウスを創設し、初代校長となりました。バウハウスでは芸術の分野から工業社会の課題に立ち向かい、「技術の継承」だけでなく「美とは何か?」「美しい物を作るとは何か?」などの哲学や方法論といったより基礎的なことを「学校教育」に落とし込みました。
創立者であるグロピウスの理念は、生活機能の総合の場である「建築」をベースに、絵画、彫刻、グラフィックデザイン、インテリアデザインなどの造形芸術を再統一するというものです。この理念のもとに成されたバウハウスの教育改革は、従来のそれを根底から変革しました。
1923年、バウハウスでは「芸術と技術-新しい統一」というテーマが掲げられました。この時に教育内容の構成についても再度見直され、より一層分かりやすく体系化されました。しかし、ワイマールの経済状況の悪化やナチスの弾圧を受け、1933年にバウハウスは完全に解散してしまいます。
バウハウスは開校からわずか14年という短い期間ではありましたが、芸術、デザインなどの考え方に大きな影響を与え、数々の優秀なデザイナーを輩出しました。バウハウスの精神を受け継いだ学生はその後、世界各地で活躍することになります。

アール・デコの流行

引用(左):Wikipedia クライスラービル 最頂部 (1930)
引用(右):Wikipedia 旧朝香宮邸 内装 (1906)

バウハウスの誕生と同時期に、装飾性と合理性が融合した様式が誕生します。それが「アール・デコ」です。アール・デコはアール・ヌーヴォーと異なり、直線的で幾何学的な形をモチーフとしています。デコは「デコラティフ」の略で「装飾的」という意味です。
1925年のパリ万博でこのアール・デコが大流行し、その影響は世界へと広がりました。見た目も美しく、直線的で作りやすく、値段も抑えられたという点が受け入れられたのでしょう。また、この時期は第一次世界大戦と第二次世界大戦の間であり、世の人々は1点物のアートではなく、機能的で合理的なシンプルなものを求めたのです。この時に「美しいもの」「デザインされたもの」が一部の富裕層だけでなく大衆のものへと変化していきました。

写真技術の発展とロシア構成主義

引用(左):Wikipedia エル・リシツキー 「赤い楔で白を穿て」 (1919)
引用(右):nostos books アレクサンドル・ロトチェンコ 「レンギスあらゆる知についての書籍」 (1924)

こちらもバウハウスの誕生と同時期、ロシアでは前衛的な芸術運動が起こりました。1917年のロシア革命を機に起こったそれを「ロシア構成主義」と言います。この頃になると写真の技術も進歩し、様々な広告でも使われるようになりました。ロシア構成主義はそんな写真を使ったフォトモンタージュ、大胆な色使いや構図が特徴です。文字を読むよりも速く、イラストよりも現実的に情報を伝えられるこの手法は、より人々の目を引きつけるものとして確立しました。
この時期、ロシアは第一次世界大戦によってとても不安定な状態が続いていました。そのような中でデザイナーや芸術家は国家の政治的思想を伝えるもの、プロパガンダを作っていました。ロシア構成主義は商業への利用のみでなく、国家規模の伝達技術に転用され、大衆操作、イメージ操作の重要な手段として使用されたのです。デザインに「人々に情報や考えを伝える」「人の心と身体を動かす」という役割が大きく出てきたという印象ですね。

今回は前編として、デザインという概念が生まれ、現代デザインの礎を築いた時代を追っていきました。次回は中編として、大きな動きがあったアメリカのデザインについて見ていきたいと思います。

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